天空の8の字 – 準天頂衛星「みちびき」の軌道

2010年9月11日、種子島宇宙センターから、日本初の測位衛星「みちびき」が打ち上げられました。みちびきはGPSを補間する衛星で、現在 数十mの誤差があるGPSの測定精度を1m以下まで高めたり、GPSの影になりやすいビルの間や山間部で位置測定をするための実験などを行います。

みちびきは長時間日本の上空に留まる準天頂軌道と呼ばれる特殊な軌道を描きます。日本の上空を通る準天頂軌道は、ちょうど静止軌道を41度傾けて、ちょっと引き伸ばして、ちょっとずらしたような形。こんな感じです。

 

赤い線がみちびき、青い線が静止軌道です(この図は模式的なものです。必ずしも正確な形や比率を表してはいません)。

赤道上の静止衛星は23時間56分で地球を一周します。おなじように、みちびきの軌道も23時間56分で一周です。これは、地球が一回自転するのにかかる時間と同じ。このため、静止衛星はあたかも赤道上の一点に留まっているように見えます。では、みちびきはどうなるでしょうか?単純に考えると、南北を23時間56分で往復しそうな気がしますが、そうはなりません。

Image : GoogleSatTrack / Google

これがみちびきの一日の動きを地球の表面に描いたもの。みちびきは地図の上で非対称の8の字を描きます。なぜ、こんな形になるんでしょうか?理由は2つ。一つはみちびきの軌道が傾いていること、もう一つは楕円軌道を描いていることです。前者で軌道が8の字になり、後者で8の字が非対称に歪みます。

軌道が8の字を描く理由 – 軌道の傾き

まずは8の字になる理由からいきましょう。みちびきは地球を一周する間に南北を往復しますが、それと同時に東西に自転から遅れたり進んだりします。自転から 遅れる→進む→遅れる→進む→遅れるで23時間56分。これと南北の動きが組み合わさると、きれいな8の字になるんです。ではなぜ衛星が地球の動きから進んだり遅れたりするのか?

話を分かりやすくするために、みちびきが円軌道を描いていることにします。この場合、軌道は静止衛星の軌道を傾けたのと同じ軌道になります。みちびきの通り道を地球に投影するとこんな感じ。先ほどと同じく、赤い円がみちびき、青い円が静止軌道=赤道です。

さて、まず地面の動くスピードを考えます。地球は球をしているので、緯度によって一周するのに必要な距離(=経度の線の長さ)が違います。赤道は一周約4万キロありますが、 日本のあたり、緯度35度付近だと、ぐるりは3万3千キロぐらいしかありません。ということは、地面が1時間あたりに進む距離は赤道から離れれば離れるほど遅くなる、ということです。

次は衛星の動きを考えましょう。赤道を横切る時、経度の線(ここでは赤道です)と衛星の進む角度の差は一番大きくなります。ということは、衛星の東西方向の動きは一番小さくなるということです。逆に衛星の緯度が一番高いところでは、ほとんど赤道と平行に動きますから、衛星の東西の動きは一番大きくなります。

ここまでの話を図にまとめると、こんな感じ。

地表は緯度が高くなるほど遅くなり、衛星は緯度が高くなるほど東西方向の動きが速くなる… さて、2つの動きをあわせてみます。ちょっとややこしいですが、上の絵を見ながら動きを想像してみてください。

赤道上からスタートします。赤道の近くではみちびきは赤道に対して斜めに北へ昇っていきます。このあたりでは衛星より地面の方が早いので、衛星は地面に対して徐々に遅れていきます。

赤道上では、地表の速度は時速1673.6km/h、対するみちびきの東西方向の動きは1183.4km/h。

緯度が高くなるにしたがって地面はどんどん遅くなり、衛星は経度の線と平行に近づいて地面に対してどんどん速くなります。ある時点で、地面より衛星のほうが速くなって、衛星は徐々に遅れを取り戻し始めます。そして最高地点で地表を追い抜きます。

最高地点では、地表の速度は、時速1371.1km/h、対するみちびきは1673.6km/h (この値はみちびきが円軌道を描いていると考えたときの数字であることに注意してください。後述しますが、実際にはもう少し遅くなります)。

さて、今度は衛星は南へと下りながら、さっきとは逆のプロセスを繰り返します。緯度が下がるにしたがって、徐々に衛星の東西方向の動きが遅くなり、逆に地面はどんどん速くなります。やがて地面のほうが速くなり、衛星は地面に対して遅れ始めます。

南半球でも同じことが起こります。南に行くに従って、衛星の東西方向の動きが速く、地面が遅くなります。

これが、「みちびき」の軌道が8の字を描く理由です。ただし、軌道が傾いているだけだと、8の字は赤道をはさんで対象形になります。上で示したような非対称の8の字になるには、もう一つの要素が必要になります。

8の字が歪む理由 – 楕円軌道

さて、もう一度最初にあげたみちびきの軌道を見てください。

実際のみちびきの軌道は赤道をはさんだ対称形ではなく、北の方が小さく南が大きな非対称の8の字になっています。これはどうしてでしょうか?これは、みちびきの軌道が円ではなく、楕円をしていることと関係しています。

楕円軌道を巡る衛星の速度は一定ではありません。中心の星に近いところでは速く、遠いところでは遅くなります。

これは高校の地学の授業を受けた人なら知っているはず。そう、有名なケプラーの第2法則です。言葉で書けば「楕円軌道を描く天体が単位時間当たりに描く扇形の面積は同じ」 というもの。上の図でいえば2つの赤い扇形の面積が同じなら、矢印の長さを通り過ぎる時間も同じ、ということになります。中心の星から離れて扇形が細長くなれば、弧の長さは短くなり、速度は遅くなります。逆に中心の星に近づいて扇形が太くなれば、弧の長さは長くなり、速度は速くなります。

みちびきの場合、なるべく長い時間日本の近くに留まるために、楕円の一番地球から遠くなる部分が一番北に来るようになっています。つまり、地上から見ると北に行くほど衛星の動きが遅く、南にいくほど速くなる、ということです。

さて、これを上の軌道が傾いていることによる効果とあわせて考えてみましょう。さきほど、軌道が斜めになっていることにより、緯度が高くなるほど衛星の東西方向の動きは速く、地表は遅くなると書きました。当然、地表の速さは変わりません。楕円軌道の効果は、北半球では衛星の動きをキャンセルして小さくする方向に、南半球ではより大きくする方向に働きます。

つまり、楕円軌道を描いていることで、8の字の上の丸は小さく、下の丸は大きくなるということです。これがみちびきの軌道があんな形をしている理由です。

 

image: Starlit Night

これは、東経135.00、北緯36.66の地点、日本の子午線上にある明石市立天文科学館から見たみちびきの軌道。赤いドットはほぼ一定の時間ごとについています。

みちびきの場合は、8の字の上の小さい円を廻るのに約8時間かかります。もし、同じ軌道に3機衛星を置いて順々にこの小さい円に入るようにしてあげれば、 24時間常に少なくとも1機の衛星がこの小さい円の中にいる、という状態を作ることができます。これが準天頂衛星のしくみ。日本の真上には静止衛星を置く ことは出来ませんが(静止衛星を置けるのは赤道の上だけです)、日本の上空に長く留まる衛星を複数上げてあげれば、あたかも一つの衛星がずーっと日本の上空で 円を描いているように見せかけることが出来る、というわけです。

Referance

 

 

木星に小惑星がまた衝突?

2010年6月3日、オーストラリアのアマチュア天文家アンソニー・ウェズリー(Anthony Wesley)氏が木星の表面で何かが2秒間に渡って発光するのをカメラで捉えました。同時刻、フィリピンの観測家クリストファー・ゴー(Christopher Go)氏も同じ現象を捉え、この現象がウェズリー氏のカメラの中ではなく木星で起きていることが確認されました。どうやらこれは木星に小さな天体が衝突した瞬間だったようです。

Image Credit: Anthony Wesley (Cited from web)

これがアンソニー・ウェスリー氏が撮影した木星表面の発光現象。左上に小さく光っている光点がそれです。たしかに明らかに表面の模様とは違うものが写っています。

さて、このニュース、肝は「また」というところ。木星に小惑星が衝突するのが観測されたのはこれで3回目。最初の観測は1995年のこと。シューメーカーレヴィ9彗星が木星に衝突しました。当時は数百年とも、数千年に一度ともいわれましたが、昨年2009年に木星に小惑星の衝突痕と思しき黒点があるのが発見されました。そして今回の発光現象の発見です。えー?数百年に一度じゃなかったの?

シューメーカー・レヴィ9彗星

はじめて木星に衝突したことが確認されたのは、シューメーカーレヴィ9彗星(Shoemaker-Levy 9)。1993年に発見され、翌年1994年に木星に衝突しました。発見したのはジーン&キャロライン・シューメーカー夫妻とディヴィッド・レヴィの3人。シューメーカーレヴィ9彗星は太陽ではなく木星を2年周期で巡る彗星でしたが、発見後の軌道計算の結果1994年に木星に衝突することが分かり大騒ぎになりました。1994年7月に実際に木星大気に落下。世界中の天文台やハッブル宇宙望遠鏡、木星探査機ガリレオなどによる観測が行われました。衝突の瞬間は地球から見てちょうど裏側だったために見えませんでしたが、木星の地平線越しの光や巨大な衝突痕、爆発に伴うキノコ雲などが観測されています。

Image Credit: NASA/JPL (Public Domain)

木星探査機『ガリレオ』が捉えた衝突時の閃光。どうやら衝突そのものではなく、衝突の瞬間に生じた光が木星の地平線越しに見えたもののようです。

Image Credit: NASA (Public Domain)

ハッブルによって捉えられた、シューメーカー・レヴィ9彗星の衝突痕。木星の縞模様に沿うように黒い痕が点々とついているのが見えます。シューメーカー・レヴィ9彗星は、複数の破片に分かれて衝突したため、このように表面に連続した跡が残りました。

Image Credit: NASA (Public Domain)

こちらもハッブルが捉えた画像。大気の上層部に衝突の際に生じたキノコ雲と思しき半球状の雲が見えます。

この彗星の発見に関してはちょっと面白いエピソードがあるので紹介しておきましょう。発見者の一人であるジーン・シューメーカー氏は今でこそシューメーカーレヴィ9彗星の発見者として有名ですが、元々はクレーターの研究者の第一人者。NASAで宇宙飛行士としてのトレーニングも受けていて、クレーターの形成に詳しい地質学者としてアポロ計画のクルー候補にもなっていました(健康上の理由から最終候補からは外されています)。

実は、シューメーカー氏は「クレーターは小天体の衝突によるものである」「小惑星が地球に衝突することによって気候の急変動が起きる可能性がある」ということを初めて指摘した研究者の一人。今では当然のように受け入れられていますが、当初は彼のこの説に疑いを抱く研究者も少なくありませんでした。この考えが多くの研究者に受け入れられるようになったのは、彼自身が発見したシューメーカーレヴィ9彗星の木星への衝突によってです。世界中の研究者が惑星に彗星が衝突するのをほぼリアルタイムで目撃し、それが惑星の大気に広汎な影響を及ぼすことを目の当たりにしたんです。つまり彼は、自説を裏付けることになる彗星を、自分で発見してしまったというわけです。すげー!

残念ながら、この画期的な発見のわずか4年後、1997年にジーン・シューメーカー氏は自動車事故で亡くなりました。実は彼の遺灰の一部がNASAの月探査機ルナ・プロスペクターに乗せられて月に送られています。

2009年の天体衝突 ― ウェズリー衝突

さて、シューメーカー・レヴィ彗星の衝突は、当時、数百年から数千年に一度というめったに起きない珍しい出来事だといわれていましたが、15年後の2009年7月、オーストラリアのアマチュア天文家アンソニー・ウェズリー氏が木星に奇妙な黒い斑点を発見しました。

Image Credit: NASA (Public Domain)

ハッブルによって撮影された2009年の衝突の跡。直径500mほどの天体が衝突したことによるもので、衝突痕は大西洋ぐらいサイズとのこと。シューメーカーレヴィ9彗星の衝突痕にそっくりですが、これは彗星によるものではなく小惑星の衝突によるもののようです。この衝突痕にはシューメーカー・レヴィ9彗星の衝突のときに見られた細かいダストが見られなかったとのこと。

ref. Hubble Images Suggest Rogue Asteroid Smacked Jupiter (HubbleSite)

2010年、木星表面の謎の発光現象

そして今回の発見。2010年6月3日、オーストラリアのアマチュア天文家アンソニー・ウェズリー氏、2009年の衝突を発見したのと同一人物、が木星表面で発光現象を目撃し、同じ現象がクリストファー・ゴー氏によっても確認されました。これで3回目。

Video Credit : Anthony Wesley(Cited from web via YouTube )

アンソニー・ウェズリー氏によって2010年6月3日に撮影された衝突の様子。こちらは動画です。左上で2秒間に渡って何かが光っているのが見えます。画面では小さく見えますが、木星のサイズを考えるとかなり大きな爆発が起きているはずです。

専門家による検証の結果は出ていませんが、今回も天体衝突であることはほぼ間違いなさそうです。木星への小天体の衝突がリアルタイムで映像に捕らえられるのは初めてのこと(シューメーカー・レヴィ9彗星の衝突は木星の裏側でした)。

彼らの発見は即座にネットのフォーラムに公開され、案の定話題騒然。惑星の継続的な観測はアマチュア天文家の独壇場(プロの天文学者はあまりこうした継続観測はしません)とはいえ、木星を見ているのは1人や2人じゃありません。ウェズリーさん豪運ですね。

木星は地球を守っている?

ある研究では、直径1.5kmほどの小惑星の木星への衝突は90年~500年に一度ほどの頻度でおきているという試算が出ています。今回観測された2010年の衝突がどれほどのサイズの小天体によって引き起こされたのかはまだ良くわかっていませんが、これほど頻繁に衝突が観測されるということは、木星への天体衝突はこれまで考えられてたよりずっと多いのかもしれません。
ref. Cratering rates in the outer Solar System (ScienceDirect)

実はこの木星への天体衝突、地球に住む我々にとっても他人事ではありません。

ジョージ・ウェザリル(George W. Wetherill)氏は、1994年に、もし太陽系に木星や土星のような巨大惑星がなかったとすると、火星や地球などの内側の惑星に飛来する小天体はずっと多かったかもしれない、とする研究を発表しました。つまり、かなりの数の小天体が木星や土星の巨大な重力によって捉えられたり弾き飛ばされたりして、それ以上内側へ落ちていくことを妨げられているかもしれない、というわけです。もしかすると、木星は我々を小惑星から守る傘なのかもしれません。
ref. Possible consequences of absence of“jupiters”in planetary systems (SpringerLink)

全く反対に、むしろ巨大惑星の存在は地球への隕石の衝突の可能性を増やしている、と考えている天文学者もいます。どうやら、巨大惑星の重力によって軌道を乱される小惑星も少なくないから、一概に守っているとはいえない、ということのようです。上の研究は、地球への隕石衝突は太陽系の最外縁部からやってくる天体によるものとされていた時代の試算です。近年、地球の近くにもけっこうたくさん小天体が漂っていることが分かってきていて、こうした天体の軌道を捻じ曲げることでむしろ木星の存在は脅威になっている可能性がある、とのこと。
ref. Jupiter – friend or foe? I: the asteroids (arXiv)
ref. Jupiter – friend or foe? II: the Centaurs (arXiv)

ジーン・シューメーカー氏が予測したように、これまで地球には幾度となく巨大な隕石が衝突し、そのたびごとに気候の急変が引き起こされてきたと考えられています。こうした衝突がある生物を絶滅に追いやったこともあったでしょうし、逆にライバルを一掃することで別の生物に幸を奏したこともあったかもしれません。どちらにせよ、今我々が見る世界が形作られる上で、小惑星の衝突が大きな役割を果たしていたであろうことは想像に難くありません。そして、木星の存在はその衝突の頻度を左右している可能性があります。

もし、これまで考えられていたより木星への小天体の衝突が頻繁に起きているとすれば、太陽系の形成に関するシナリオを見直さなければならないかもしれません。そして、それは地球の地質学的な歴史を書き換えるかもしれないのです。

Referance

Anthony Wesley Impact on Jupiter, June 3 2010
http://jupiter.samba.org/jupiter/20100603-203129-impact/index.html

YouTube – Asteroid Impact on Jupiter; Anthony Wesley (2010.06.03)
http://www.youtube.com/watch?v=Yo6LHljBKW8

Christopher Go  JUPITER 2010
http://jupiter.cstoneind.com/

Comet Shoemaker-Levy 9 – Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Comet_Shoemaker-Levy_9

Galileo Images of Fragment W Impact (NASA/JPL)
http://www2.jpl.nasa.gov/sl9/image237.html

HubbleSite – NewsCenter – Hubble Sees Comet Fireball on Limb of Jupiter (07/17/1994)
http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/1994/30/

HubbleSite – NewsCenter – Color Hubble Image of Multiple Comet Impacts on Jupiter (07/22/1994)
http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/1994/1994/34/

“Asteroids: Deadly Impact” National Geoglaphic 1997 (邦題:『衝突!彗星と小惑星』)

USGS Astrogeology: Eugene M. Shoemaker
http://astrogeology.usgs.gov/About/People/GeneShoemaker/

2009 Jupiter impact event – Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/2009_Jupiter_impact_event

HubbleSite – NewsCenter – Hubble Images Suggest Rogue Asteroid Smacked Jupiter (06/03/2010)
http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/2010/16/full/

A. Sánchez-Lavega. et al. “The impact of a large object with Jupiter in July 2009” arXiv:1005.2312v1 [astro-ph.EP] 2010
http://arxiv.org/abs/1005.2312

HubbleSite – NewsCenter – Hubble Captures Rare Jupiter Collision (07/24/2009)
http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/2009/23/

ScienceDirect – Icarus : Cratering rates in the outer Solar System
http://dx.doi.org/10.1016/S0019-1035(03)00048-4

George W. Wetherill “Possible consequences of absence of“jupiters”in planetary systems ”  Astrophysics and Space Science (via SpringerLink)
http://www.springerlink.com/content/n101761085801516/

J. Horner, B. W. Jones “Jupiter – friend or foe? I: the asteroids” arXiv:0806.2795v3 [astro-ph] 2008
http://arxiv.org/abs/0806.2795

Jonti Horner, Barrie W Jones “Jupiter – friend or foe? II: the Centaurs” arXiv:0903.3305v1 [astro-ph.EP] 2009
http://arxiv.org/abs/0903.3305

人工的に合成したゲノムから、バクテリアを作り出すことに成功

2010年5月20日発行の『サイエンス』に、アメリカのクレイグ・ヴェンター研究所(J. Craig Venter Institute)に所属するハミルトン・O・スミス博士(Hamilton O. Smith, M.D.)率いる研究チームが、人工的に合成したゲノムから完全なバクテリアを作り出すことに成功した、という論文が掲載されました。おおお!

ref. Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome (Science)

Credit: J. Craig Venter Institute (Cited from JCVI)

これが今回、人工的に作られたバクテリアのコロニー(着色されています)。コロニーが形成されているということはこのバクテリアが普通の細胞と同じように増殖していることを示しています。

論文のタイトルは控えめな表現ですが、研究所のニュースリリースには、しっかり「人工バクテリア/人工細胞 (Synthetic Bacterial Cell)」という言葉が使われています。人・工・細・胞!なんという心躍る響き。なんとなく、古きよきマッドサイエンスの香りのする言葉ですねえ。

ref. PRESS RELEASE: First Self-Replicating, Synthetic Bacterial Cell Constructed by J. Craig Venter Institute Researchers (JCVI)

ゲノム、というのは生物の持つ全遺伝子情報のこと。親から子へ受け継がれる遺伝子ワンセットのことです。つまり、バクテリアを作るのに必要な全ての遺伝子情報を人工的に合成して、その遺伝子情報からほんとにバクテリアを作り出すことに成功した、ということです。

具体的には、コンピューター上のデジタルデータを元にゲノムの切れ端を化学的に合成、それを何段階も経て全てつなぎ合わせて一本のゲノムとし、それを染色体を取り除いた別のバクテリアの核の中に入れて新しいバクテリアを作ったとのこと。

しかも、その人工ゲノムには遺伝子情報の中に「透かし(water mark)」が埋め込んであって、作られたバクテリアはその透かしを含めてちゃんと増殖することが確認されています。すげえ!

ちなみに、透かしには関係者46人の名前、引用句が3つ、そしてWebからメールを送れるフォームのURLがDNAの配列にコード化されて入っているとのこと。暗号が解けたらそのメールフォームから連絡を、ということだそうな。ちなみに、引用というのは以下の三つ。

“TO LIVE, TO ERR, TO FALL, TO TRIUMPH, TO RECREATE LIFE OUT OF LIFE.” – JAMES JOYCE

“SEE THINGS NOT AS THEY ARE, BUT AS THEY MIGHT BE.” – A quote from the book, “American Prometheus”

“WHAT I CANNOT BUILD, I CANNOT UNDERSTAND.”  – RICHARD FEYNMAN

うーん、なんだかちょっとやりすぎ、という気もしないでもないですねえ。

遺伝子組み換え技術との違いは?

既存の生命の遺伝子を改変して新たな機能や特徴を持った生物を作り出す、ということはすでに当たり前のように行われています。スーパーに行けば「遺伝子組み換え植物を含まない」というラベルを当たり前のように目にしますよね(これだって、考えてみれば凄いことですが)。でも、この遺伝子組み換えは、既存の生物の遺伝子を直接操作して行われるもの。たとえば、ある生物の遺伝子を特定の場所で切り離し、別の生物の遺伝子をつなぎ合わせることで新しい遺伝子を作ります。パッチワークみたいなものですね。

一方今回の研究では、ゲノムそのものがコンピューター上のデータ化された遺伝情報から人工的に合成されました。言ってみれば、コンピューター上でゲノムをデザインし、そのデザインどおりに生命を作り出すことを可能にする技術が生まれた、ということです。上の例で言えば、一から布を織る方法が発見された、ということになるでしょうか。

元になったゲノムが既存のバクテリアのほぼコピーだったり、増殖に別のバクテリアを使っていたりするので、厳密に言えば人工生命の誕生とはいえないかもしれませんが、それでもかなりそれに近い技術であることは確かでしょう。どうやらすぐさま応用が可能、というものではないようですが、遺伝子工学の新しい扉を開く画期的な成果であるのは事実です。

今度こそほんとの人工細胞

実は、今回の発表を行ったクレイグ・ヴェンター研究所の研究チームは、ずいぶん前からこの人工ゲノムによるバクテリアの製作を目標に次々と要素技術をクリアしていました。その意味では、この発表は青天の霹靂でもなんでもなく、いつ可能になるかだけが問題だったともいえます。

彼のチームは、まずあるバクテリアAからゲノムだけを取り出し、別の種類のバクテリアBに注入して、Aの特徴を持ったバクテリアをBの細胞から作り出すことに成功しました。これが2007年。翌年2008年にはフルサイズのゲノムを合成する方法を開発しました。それまでは、ゲノムの一部しか合成できなかったんですが、これらをフルサイズのゲノムまでつなぎ合わせる技術を開発したんです。この2つの技術を組み合わせれば、今回の「人工ゲノムによるバクテリアの作成」が可能になります。

この間、クレイグ・ヴェンター研究所からなにか研究発表があるらしいという噂が流れる度に、すわ人工細胞が完成か?という憶測が飛び交っていました。2008年の発表の時にも、人工生命誕生は時間の問題、なんていう見出しがネットニュースに躍っていました。それから2年、とうとう本当に「人工細胞」の作成に成功したというわけです。

クレイグ・ヴェンター研究所

クレイグ・ヴェンター研究所の創業者、クレイグ・ヴェンター氏は、ヒトゲノムの解析競争で一躍有名になった、セレラジェノミクス社の初代CEO。当時、人の遺伝子情報を一企業が独占して商品として販売する、ということに対するアカデミックな世界からの猛反発がありましたが、その渦中にいた人です(彼の自伝を読むとたぶんに誤解もあるようですが…)。今や、遺伝子関連技術に関して企業利益が優先されることは半ば当たり前になりましたが、その先鞭をつけた人物ともいえるかもしれません。彼の先見性を評価する声は大きいですが、同時に彼の商業主義的な面とちょっと強引なやり方に反感を持つ人も少なくありません。

彼は、セレラジェノミクスを辞した後、自らの研究所であるクレイグヴェンター研究所を設立しました。この研究所は分子生物学の応用面を扱う非営利の研究所。最近はバイオ燃料を効率よく作り出すバクテリアの研究に力を入れているようです。今回の人工細胞の研究もその一連の研究の中から生まれたものとのこと。

確かに凄い研究だけど…

この研究、素人目に見ても実用化すればとんでもなく応用範囲の広い技術です。生物の全ゲノムを読み取ることは、今やごく当たり前の技術になりました。それを利用して、たとえば絶滅してしまった生物のゲノムを推測してコンピューター上に再現する、なんてことも行われています。将来的には、そうしたデータを使って、絶滅してしまった生物や全く新しい生物を作り出せるようになるかもしれません。クレイグ・ヴェンター研究所でも、新薬の研究やバイオ燃料の製造なんかに利用しようと考えているようです。

この発表以来、当然ながら倫理的な側面での懸念が多数寄せられました。神の領域に踏み込む行為だという信条的なものから、バイオテロに使われるのではないか、あるいは意図しない改変が行われる可能性があるのではないか、といった実質的な危険性を指摘するものまで様々。議会も人工的にゲノムを作り出す研究に対して何らかのガイドラインを設けることを検討し始めているようです。

ref. Congress Considers Synthetic Biology Risks, Benefits (ScienceInsider)

ただ逆に言えば、そうした悪用や意図せぬ影響を防ぐ意味でも、この技術によって可能になるコントロールが有効だということも念頭においておくべきかもしれません。こうしたゲノムをプログラミングする技術が進めば、パンデミックやアウトブレイクに対してピンポイントでワクチンなどを製造することが可能になります。バイオテロなどに対抗する手段としても有効でしょう。これまでの遺伝子組み換えよりも遥かに精度が高いわけですから、意図せぬ改変もむしろ減らすことが出来るかもしれません。

でも、コンピューターウィルスみたいに、本物のウィルスとアンチウィルスが日々生み出されて争っている世界、というのはあんまり想像したくないですねえ。

Reference

Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome — Gibson et al., 10.1126/science.1190719 — Science
http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/science.1190719

JCVI: PRESS RELEASE: First Self-Replicating, Synthetic Bacterial Cell Constructed by J. Craig Venter Institute Researchers
http://www.jcvi.org/cms/press/press-releases/full-text/article/first-self-replicating-synthetic-bacterial-cell-constructed-by-j-craig-venter-institute-researcher/

JCVI: Research / Projects / First Self-Replicating Synthetic Bacterial Cell / Overview
http://www.jcvi.org/cms/research/projects/first-self-replicating-synthetic-bacterial-cell/overview/

Synthetic Genome Brings New Life to Bacterium — Pennisi 328 (5981): 958 — Science
http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/328/5981/958

Synthetic Biology Breakthrough: Your Questions Answered – ScienceNOW
http://news.sciencemag.org/sciencenow/2010/05/synthetic-biology-answers.html

Congress Considers Synthetic Biology Risks, Benefits – ScienceInsider
http://news.sciencemag.org/scienceinsider/2010/05/congress-considers-synthetic-bio.html

ヤモリの眼

まずは、タイトルの話から始めましょう。”Gecko’s Eyes” というのは、「ヤモリの眼」という意味です。ちょっと変わったサイトにしたかったので、ちょっと変わった名前がいいなあと思ってつけた名前ですが…

Gecko’s eyes see colors in the dark.

“ヤモリの眼は闇の中に色を見る”

上の方に書いてあるなんだか思わせぶりなこのフレーズ、実はこれは比喩でもなんでもなく本当の話。ある種の夜行性のヤモリは暗い所でも色彩を見分ける能力を持っています。実は、これは驚くべきことです。人間を初めとする多くの生物では、色彩を見分ける能力と、暗い所でものの形を見分ける能力は両立できません。夜行性のヤモリはなぜかこの不思議な能力を持っているんです。

ヘルメットヤモリ (Helmeted Gecko). image:Public Domain (via Wikimedia Commons)

 

人間を含むほとんどの動物は2種類の視細胞を持っています。ひとつめは錐体細胞(すいたいさいぼう)、この細胞は色を見分けることができる代わりに感度が低く、暗い所ではほとんど働きません。もうひとつは桿体細胞(かんたいさいぼう)、逆にこちらは色を感じることができない代わりに感度が高く、暗い所で活躍します。人間は暗い所ではモノの形は分かっても、色を見分けることはできません。同じように、夜目が利く生き物はたいてい桿体細胞が発達していて、暗い所でも活動できる代わりに、色を見分けるのはあまり得意ではありません。

でも、夜行性のヤモリはその例外。なぜなんでしょうか?

実は、夜行性のヤモリは、他の生物が暗い所で使っている桿体細胞を持っていません。つまりヤモリは、本来明るいところでしか役に立たないはずの錐体細胞を暗い所で使っているんです。スウェーデンのランド大学、リナ・ロス博士(Lina S V Roth)率いるチームは、2004年の研究で、夜行性のヘルメットヤモリは桿体細胞を持っていない代わりに、錐体細胞が人間の350倍もの感度を持っていて、暗い所でも色を見分けることができることを実験で確認しました。どうやら、夜行性のヤモリは、驚くほど感度のいい錐体細胞を持っているようです。ヤモリすげえ!

…と、話はこれで終わりじゃありません。むしろここからが本題、最近の研究でヤモリの目はこの能力を最大限に発揮するために実に巧妙な構造を持っていることが分かってきました。それは瞳が光を集める仕組み、レンズの構造と関係しています。

暗いところでたくさん光を集めるためには、なるべく大きいレンズを使ってあげる必要があります。これは天体望遠鏡でも同じですね。実際、夜行性のヤモリは、昼行性のヤモリより大きな瞳を持っています。しかし、ただレンズを大きくするだけでは焦点距離 ― レンズと網膜の距離が長くなってしまい、網膜に像を結ばなくなってしまいます。これを防ぐには焦点距離の短いレンズ、つまり厚いレンズを使わなければなりません。でも、ここに問題が…

レンズが厚くなると、「色収差」とよばれる現象が起きて像がにじんでしまいます。これはごく普通のカメラや望遠鏡などでも起きる現象。安いレンズを使ったカメラだと、被写体のエッジの部分に色がずれたようなにじみが出ることがありますよね。あれが色収差です。

上:色収差なし、下:色収差あり image: Public Domain (via Wikimedia Commons)

これは、光の波長によって屈折率が違うために起きる現象です。プリズムを思い出してください。プリズムを通すと光が七色に別れて見えますが、あれと同じことが目の中のレンズにも起きてしまうんです。言い換えると、これは赤い色と青い色ではピントの合う距離が違う、ということです。レンズが薄ければ、この効果はほとんど出ません。しかし、レンズが厚くなるとこの効果が強くなって、像がにじんでしまうんです。

image:Public Domain (via Wikimedia Commons)

望遠鏡やカメラのレンズなどでは、レンズを複数組み合わせて色収差を補正しています。また、目の大きさに対してレンズがさほど厚くならない昼行性の生き物では色収差はほとんど問題になりません。例えば人間とか。

実は、人間の目にも色収差はあります。ただ、人間の瞳のレンズの色収差はごくわずかで、瞳の調節機構でカバーできてしまうため、普段ほとんど気づくことはありません。たとえば、人間の目には、同じ距離に置いた青いものと赤いものでは、青いものは遠く、赤いものは近くに見えます。これは人間の目が色収差を補正する時に微妙に焦点距離を変えているために起きる錯覚です。

夜行性のヤモリの場合、レンズが厚いために、瞳の調節機構ではこのずれを補正し切れません。では、彼らはどうやって色収差を補正しているんでしょうか?あるいは、かれらは、ぼやけた視界しか持っていないのでしょうか?

先の研究を行ったリナ・ロス博士(Lina S V Roth)による、新たな研究で実は夜行性のヤモリはとても巧妙な補正システムを持っていることが明らかになりました。どうやら彼らは1枚で複数の焦点距離をもつレンズを持っているようです。ヤモリの瞳を特殊な計測器にかけたところ、そのレンズは球面ではなく、場所によって焦点距離が違う非球面レンズになっていました。そう、言ってみれば遠近両用めがねと同じ。どうやら、これによってヤモリは厚いレンズを持っているにもかかわらず、広い波長の範囲で焦点を結ぶことができるようです。しかも、遠いところからすぐ近くまでピントが合わせられるというおまけ付き(遠近両用ですからね)。ヤモリすげえ!

なぜ彼らが、こんな特殊な能力を持つに至ったのか、詳しいことはよくわかっていませんが、おそらく進化の過程で、いったん昼間の生活に適応して桿体細胞を失ったあと、一部が夜行性になり残った錐体細胞で暗いところを見る能力を身に着けたのではないか、と考えられています。

ちなみに、このサイトに住み着いている緑のヤモリはヒルヤモリ(Day Gecko)。その名の通り昼間に活動するヤモリで夜目は利きません。いきなり看板に偽りありですねえ…

というわけで、Gecko’s Eyes 始まります。どうぞごひいきに。

References

Nocturnal colour vision in geckos. (PubMed Central)

The pupils and optical systems of gecko eyes (Journal of Vision)

‘Gecko vision’: Key to the multifocal contact lens of the future? (Physorg.com)

File:Helmetedgecko-4.jpg (Wikimedia Commons)

色収差 ( Wikipedia)

はじめに

2000年に「Garbage Collection」「Junkyard Review」という個人サイトを作って10年、気が付いたらサイエンスのことばかり書いていました。最初はただの日記のつもりだったんですが…。結局この10年で、僕はサイエンスファンを名乗るようになり、ただの趣味だったものがいつの間にか科学の本を作ったり(本職は自然科学書の編集者です)、科学に関する文章を書いたり(こちらは副業、某宇宙開発関連機関の子供向けサイトで解説記事を書いたりしています)して生活するようになっていました。びっくり。

いつまでもびっくりしているわけにもいかないので、とりあえず始めてみることにしました。これまでサイエンスニュースを追いかけたり、サイエンスの片隅で仕事をしたりする中で考えてきたことをふまえて、ネットというメディアで何ができるのか、もう一度試してみようというわけです。それが今回あらためて「サイエンス」を看板に掲げたこのブログを立ち上げた理由。

僕がずっと考えていたのは、こんなことです。

サイエンスライティングについて

英語にはサイエンスライティング(Science Writing)という言葉があります。そのまま「科学について書かれたもの」という意味。科学論文以外、新聞や雑誌の記事、ニュース、科学書などの科学に関する文章のこと。広い意味では大学のニュースリリースや博物館などの解説文も含みます。欧米には、”Best Science Writing 2010″なんていうアンソロジーがあったり、優れた作品に毎年賞が贈られたりしていて、かなり一般的な用語です。でも、残念ながら、日本にはこの単語はありません。「科学読み物」が一番近いでしょうか?あるいは「科学解説」とか「科学エッセイ」とか…。あえて言えばこの3つを全て含む言葉なんですが、ぴったりくるものはなかなかありません。

英語圏の新聞や独立系のニュースサイトを見ると、日々すばらしいサイエンスライティングが掲載されています。ただ科学ニュースを紹介するだけでなく、そのニュースを理解するのに必要な周辺情報を押さえ、研究の経緯を紹介し、当事者にインタビューをし、波及する分野に言及し、時にはライターの個人的な意見が掲載されることもあります。何よりそれぞれが「読み物」としてとても完成度が高い。そのトピックを読者に伝えるのに最適な構成、表現、語り口が注意深く選ばれ、読者を楽しませようという意識にあふれています。なんともうらやましい。

でも、我々が普段目にする新聞や雑誌の片隅の科学ニュースは、ただその表面に軽く触れるだけで、その奥にある物語をなかなか教えてくれません。紙面や時間の制限から内容を必要最小限に抑えざるを得ないのは仕方のないことですが、もったいないなあと思うこともしばしば。もう一歩踏み込むだけでとても豊かな世界が広がっているのに、話がその手前で止まってしまう。あああ、そこからが面白いところなのに!

サイエンスの世界は、様々な事象が複雑に絡み合う網の目のような構造をしています。一つの研究は過去の数え切れないほどの発見や研究を下敷きにしていて、沢山の人や技術がそれに関わっています。またその一つの研究結果がさまざまな事象と関連し、さらに他の数多の研究に波及していきます。確かにこれはサイエンスの取っ付きにくさの一因なのかもしれません。でも、サイエンスの面白さは、むしろこの網の目の中にあるんです。

サイエンスの楽しさについて

「理科離れ」や「科学教育」、「サイエンスコミュニケーション」についての会合に顔を出すと、いつもそこで議論されているのは「科学者をどう育てるか」「子供たちをどうやって科学好きにするか」という話です。曰く「国民の科学リテラシーの向上を図るべきだ」、曰く「科学者はもっと情報発信をするべきだ」、曰く「新聞記者は科学的な基礎知識を身につけるべきだ」… もちろん、こういった活動の重要性は重々承知しています(自分もその一端にいるわけですから)。でも一方で、サイエンスの楽しさを伝えるってそんな大げさなことなのかな、とも思うのです。

「サイエンスの楽しさ」には2種類あります。一つは、未知のものと出会い、それを解き明かす楽しさ、探求の喜びです。要するにこれは科学者がやっていること、サイエンスの営みそのものです。もう一つは、そうした「サイエンスの営み」それ自身を楽しむこと。科学者の物語に心を躍らせ、サイエンスの成果に触れて世界観をひっくり返される喜び。これはサイエンスを外から眺めるファンの視点。前者の楽しさを味わうのはなかなか大変です。真面目にやろうと思ったらそれこそたくさん勉強しなくちゃいけません。でも、後者を楽しむのはたぶんそんなに難しいことじゃありません。

サイエンスの世界には、とびきり面白い人たちが沢山いて、面白いエピソードがごろごろしていて、しかもきらきらした未来まであります。もちろん、人のやることですからどろどろした部分もあるでしょう。でも、それを含めてとても魅力的な世界です。サイエンスは外から見ているだけでも充分に楽しいんです。

たぶん、サイエンスの魅力は、その成果が社会に還元されて社会が便利で豊かになることだけではなく、むしろ科学者や技術者たちが目をきらきらさせながら見せてくれるもののほうにあります。毎日のように出てくるニュースリリースや論文の影には、世界の秘密に魅せられ、寝食を忘れてわくわくした人たちがいます。科学者や技術者になるのは大変ですが、彼らのわくわくを分けてもらうのはそんなに難しいことじゃありません。必要なのは想像力と好奇心、そしてほんの少しの知識。そう、知識なんてほんのちょっぴりでいいんです。

彼らが私たちに見せてくれるのは、この世界のありよう。目に見えないものや手の届かないもの、これまで知り得なかったもののこと。ずっと未来のことや、大昔のこと。すごく小さなものや、すごく大きなもののこと。そう、サイエンスは何よりもまず、世界を楽しむための方法なんです。

サイエンスファンとして

編集者やライターである前に、僕はサイエンスのファンです。日々、サイエンスのニュースを追いかけるのが楽しくて仕方がありません。こういうことを書くと怒られるかもしれませんが、個人的には理科離れをどうにかしようとか、状況を打破しなくちゃなんて思いはそんなにないんです(そもそも自分にそんなことができるとは思えませんしね)。ただ、それを抜きにしても「もったいない」と思うんです。こんなに楽しいのに、こんなに美しいのに、なんてもったいない!

そして、できるならば目の前にいるあなたにもファンになって欲しい。同じくサイエンスファンであるあなたには一緒になって楽しんで欲しい。ただ、それだけのことです。いつの間にかサイエンスの片隅で仕事をするようになった一人のサイエンスファンとして、その立ち位置だけは忘れたくないな、と思うのです。

このあいだ、知り合いに誘われてJリーグの試合を見に行きました。実はプロサッカーの試合を生で見るのは初めて、選手の名前はおろか、ルールもよくわかっていません。それでも、僕は充分すぎるほどに楽しみました。それは連れて行ってくださった方々が、折に触れ「あの選手はね…」とか「今からサポーターが面白いことをするよ」と囁いてくれたからです。もちろん彼らはサッカー選手ではありません。でもサッカーの楽しみ方をとてもよく知っていました。初めてスタジアムでサッカーを見て、僕はサッカー選手になりたいとも、そのチームのサポーターになろうとも思いませんでしたが、サッカーが少しだけ好きになりました。少なくとも、もう一度スタジアムに来たいと思うぐらいには。

僕がここでやってみたいのは、たぶん、そういうことです。